9月に見た2本の舞台・・・・その1「炎立つ」

忙しい、忙しいと言いながら9月は2本の舞台を観ました。栗山民也さんの「炎立つ」とTHE SHAMPOO HATの「風の吹く夢」。
規模も作風も何もかもが異なる2作品、近頃はめったに書かなかった
 「考察」 
をまずは「炎立つ」から。




かなり前から見ると判っていたのでとりあえず原作を読んで準備(大河は見ませんでした。)しましたが、
舞台の内容は原作の中では余りページを割かれてもおらず、踏み込んでもいない「清衡と家衡」を中心として独自の解釈を加えたものでした。

もちろん背景は知っておいた方が人間関係を深読みできるけれど、史実を学ぶための舞台では無く、
その時見たものを素直に感じればそれでOKという見る側に多くを委ねる、作品だったと思います。

というわけで、ここからはワタシの見たまま、感じたままの考察をだらだらと。
(独自の考察だから許してねという言い訳であーる。(笑))



ワタシなりの考察  「明日世界が滅びるとしても今日、林檎の木を植える」





既存のイメージと違い、主人公のキヨヒラという人物は意外に「そんなに人格者でもいい人でもない」です。
もちろんヒーローは悩み苦しみ成長していくものなわけですが、
そればかりとは言えない、迷いとは別の=あまり良い言い方ではないけれど=わりとコロコロ考えが変わる一貫性のない、ところがありまして。

父の仇とも言えるヨシイエと通じ精霊のお告げの子として、ある意味、最初からイエヒラの勢力を奪ってやろうと思っているくせに
(パンフにもはっきり書いてあるし、母、ユウに弟と戦う(ことになるだろうから)許してねと言っている。)
それが何を招くかも深く考えずにイエヒラを追い込んで、結局、妻と母を自害せざるおえないような事態を招く。
そして母や妻子を失うと今度はイエヒラを憎んで鬼になると言う。
楽土のためでなく憎しみのために戦うと言う。


挙句に(全然、あげくじゃないけど)、父が戦った朝廷と連合軍を作ってイエヒラとの戦をはじめる。
そして散々負けて(たぶんここで、負けたことで)今度は実力行使ではなく、兵糧攻めで相手を屈服させようとする。
そしてイキナリ「それは全て民のためだ」と言い出す。
イエヒラには「早く気付いて降伏しろ」とか「戦いはいやだ」とか言っているけれど、今までの状況から考えてそれはあまりに口先だけだ。
本気でそんな風に思っているなら、キヨヒラは本当に人を見る目がない。


キヨヒラの人を見る目の無さはヨシイエに対する態度からも明らかで、
判っていたくせにハッキリ「領地を分けたのは戦をするためだ」と言われれば「!!!」とし、
兄弟の確執や軍のためなら命を捨てると言われれば見直し、後に残忍で脆いところを見せられれば「要らない」と思う。
ていうか、キミ…最初から「ヨシイエは戦いを望んでいる」と判っていただろうよ!! …と。

そのうえ、キリ(奥さん)の幽霊が出てきて「イエヒラを本当の弟にしなさい。」と諭してくれたのに結局、何もしないのだ。
本当の弟にするとは、イエヒラの気持ちに寄り添うことだよ。でも、それは最後までしない…。。。。(TT)
そして、イエヒラが死んでやっと、戦いは無意味だ、お前の死は無駄にしない。
戦いを捨て、楽土の方向性を見出すのだ。


でも、これは母のユウ似の性格なのだ。この親子、ホント似てるの…。

母もキヨヒラを守るために産んだ仇の子と判っていながら、子供に一も二も無いと言ったり、
子供と親が一緒に暮らすのは良くないと言ったそばから、キヨヒラが一緒に暮らそうと言えば大喜びしたり。
キヨヒラがイエイラと戦うと言った時には、仕方ないふうだったくせにイエヒラが言えば産むんじゃなかったと言い…。
お前たちのためなら喜んで命を捨てると言いながら、結局はキヨヒラのために死ぬ。(楽土のためじゃないよ)



つまり、彼らは人格者でもヒーローでもなく、さまよう普通の人なのだ。
もちろん、それなりに徳はある、人望もある、賢い、でもふらふらとする。
このふらふら感、キヨヒラの迷い感については原作者の高橋さんもパンフに書いている。



このふらふらをどう処理するか…ここが、非常にこの舞台の面白いところで、
「あんなスゴイ事を成し遂げた人も最初から立派だったわけじゃないのねー。」で普通終わるところを「神」「精霊」を咬ませる事で、その彷徨いを「運命」にするのだ。
エイヒラの死にざまもユウとキリの死のタイミングも、すべては「神=アラハバキ」と精霊のお告げ通りになる。
つまりは、人は神の手の中で踊る駒なのか??


その答えも、この舞台は最後に提示する。


ワタシたちは土地の神の手の中で生きている、アラハバキは「エミシの人間のための神」ではない。
あるサイクルで「時の裂け目」を起こし、すべてを覆す。
それは人が生まれるずっと前から(バクテリアや恐竜の頃から)何度も。


キヨヒラは言う「それでもその時、戦はすてる」と
そして神アラハバキは言う「それならワタシはそれを見届けよう。」


例え、必死で杭を打ち、黄金の寺院を建てようと、そんなものは大地の命のサイクルとは全く関係のないこと。
100年後「時の裂け目」アラハバキの予言(というか計画?)通りに起こる。
エミシはキヨヒラの宣言通り戦わず、楽土は焼かれる。
神には逆らえない、運命は変えられない。大地の運命のサイクルには抗えない。


でも、その時に「どのような態度をとるか、その自由を持っていること」それが人の尊厳だ。
震災の後に話題になった「夜と霧」にも書かれている「態度自由(=態度価値)」。
どんな状況の中でも、その時どんな態度を取るかは、人間だけに与えられた最後で最大の自由なのだ。
この自由を捨てない限り、私たちは神の手に操られる駒ではなくなる。


この舞台を見終わって思い出した、ふたつの自分の大好きな言葉。


「あちこちにぶつかりながら波間を漂う壊れた船。神様、それでも自分自身で決めます。」

そして表題にもした

「例え明日世界が滅ぶとしても今日、林檎の木を植える。」



最後の挨拶で、金子飛鳥さんが仰った事を思い出す。
楽土を築くために戦ったキヨヒラだからこそ、戦いでは楽土は得られない事に気付いたのだ。
神の国のため、民の国のために戦うのは、目的が清いからこそ悲しく虚しいと思う。






*****

おまけ

イエヒラ親子も似てます。
どっちもロマンチストで不器用。戦いに勝てば愛を得る事ができると思ってる・・・。
敵の妻に惚れて、結局嫁にして、敵の息子も殺せなかったお父さん。
ユウのこと好きだったんだろうなー。